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『和法 (生術)』
武の道は本来、神棚を祭り、神様事は切っても切れ無い関係でした。其の為「考え方・物の見方を意識する事。礼儀作法。肉体成長。健康。幸。」と言う精神を武道教育とし、色々な判断力を記憶力を養う教育が存在して居ります。此の古典的な教育法と今の時代そして未来に順応性有る教育法を真晶會館では、生活法と捉え、此の生活の和み方の方法を『和法』と考えて居ります。そして其れを話術や実践術(武道家自身の実践)を施す術を『生術(イジュツ)』だと考えて居ります。そんなに難しい意味は有りません。
中国の漢方とは全然関係有りません。大昔から日本に有る神道の歴史に、和法と言う考え方が有りました。其の和法に近いのだと思います。
活法で自分や患う方を平癒させるのにも、唯、技や術だけでは平癒させる事は片手落ちです。
殺法に於いても、対峙する其の現場では自分を知って居無ければ行けません。自分を知ら無いのにどうして対峙する相手が理解出来るのか?他を知ら無ければ何時も最悪のプロセスを繰り返させて仕舞います。『生活』に於いて、対峙とは、人との繋がりの会話もそうです。一番最悪なプロセスからケンカへと移行する事は命が幾つ有っても足ら無いと言う事。御互いの会話も自分を否定されず認めて貰おうとする有る種のケンカです。人付き合いは喧嘩を覚悟し、ケンカはケンカでも、『最後に華を咲かせ実を実らせ良しとする』と言う結果を出し御互い実り有る和合を持てる喧嘩を仕無ければ行けません。
此が和法の本質です。其の為には身体も調子(体力)が良く無くては駄目ですし、其の現場に置いての集中力・意識力(気力)も必要ですし、耐え得る精神力(知力)も必要です。此の体力(殺法)と知力(活法)を養い乍ら、気力(和法)を持って和合する。真晶會館では、此の理念を武の道の本質だと考えて居ります。
真晶會館では、喧嘩は「口で会話し、御互い自分の主張を言動行動に因って、御互いや身の周りの人に一番良い方向、華が咲き実が出来る程の幸を振り蒔ける様な答えを出し、未来の結果を良しとする。其れを後生に述べ伝える事」と考えて居ります。「ケンカ」は行けません。
此の様に考え方や物の見方を学び、自分に気付き、他(人も自然も宇宙も)と和み、真晶會館では此の和む術を生術と言い、其の技と術の成り立ちを和法と考えます。武の道と言っても、其其考え方や受け取り方が有るので、「此の考え方が武道で有る!」何て言えませんが、此が真晶會館の考えで有ります。
和法の原点は、「自らが自らの事を好きに成れる様な自らを未来に形成する」と言う事です。真晶會館の理念の基本土台でも有ります。遣るべき事はしっかり遣り、『役に立つ様、仕上がりは美しく、其の状況が自分らしい自分を未来に産み落とす事。』『嘘を付か無い、隠し事を仕無い、約束は守る事。』此の三位一体が和法を成り立たせて居ります。此の考え方は強制する者では無く、自分自身に、又、自分の現場に合った和法を成立する為の条件だと真晶會館は考えて居ります。
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最終更新日
2003年10月28日
火曜日 10:55:50
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